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東日本大震災 アークライトによるライトアップ支援 光のボランティア 記録

2011年3月23日水曜日 【東日本大震災後12日目】から3月26日日曜日 【東日本大震災後16日目】 4日間、光のボランティアとして支援の為に福島県へいってきました。 その記録です。
叉、平工業高校体育館で、被災者の方と一緒に寝泊りして、気づいた現地での様々な問題点も記しました。

2011年3月22日火曜日 【東日本大震災後11日目】<訪問準備>
電話にて; 戦後最大なる日本の危機に対して、なんとか支援をしたい・・・と強く思った。

コンタクト先一覧            
総務省 03-3212-5111   東京電力カスタマーセンター 0120-12-8589
東京消防庁 03-3212-2111   東京都庁 03-5321-1111
福島県震災対策本部: 024-521-2101   福島県いわき市震災対策本部:
http://www.pref.fukushima.jp/j/index.htm
福島県原発安全対策所 024-521-7254.7255   名古屋中村警察署 052-452-0110

個人情報保護の為、所属をあきらかにしていませんが、せめて苗字のみ記載します。
桑原さま、 タカシナさま、小林さま、辻村さま、御代(みよ)さま、中村さま、他受付のかたがた。
多忙での中、色々アドバイスをいただきました。 御礼&感謝! おかげで支援に行くことが出来ました。 重ねてありがとうございます。
さらなる「光のボランティア」支援訪問を計画しております。


2011年3月23日水曜日 【東日本大震災後12日目】<訪問1日目>
9:00AM
福島県から依頼を受けた、いわき平競輪場(福島県いわき市平谷川瀬西作1)に到着
指定場所を確認開始

いわき平競輪場は、災害対策物資物流センターの役割をしている。 ところが、福島県からの依頼であったが、何かの行き違いか、アークライトを懐中電灯と間違われたようで、関係機関に確認するも誤解されていた。 (必要が無いとのコメント...) せっかく、支援の為に来たのに!と途方にくれた。
11:00AM
福島県いわき市の海浜側を行ける範囲内で視察。 この場所は、簡保の宿の付近で、田畑は塩水で浸かっていた模様。 被害はひどかった。

むごい!
01:00PM
支援をあきらめなかった。
試行錯誤を繰り返し、いわき消防本部へ支援をしたいと申し出て、幸運な事に、本部の4階が福島県いわき市震災対策本部であった。 ここでボランティア登録した。
2:20PM
福島県いわき市震災対策本部前(消防本部)駐車場にて、ボランティア登録後待機。 許可を得て、被災者へ迷惑かけないよう野営の準備。
6:20PM
今後の事を打ち合わせ中、いわき市市民協働部(兼)総合総合調整担当荒川次長より、避難場所である、福島県立平工業高校への支援依頼を受けた。 避難者はおよそ160名、体育館内で滞在中であった。
3月24日 深夜 3:20
月夜の当日、 空が不気味であった。
7:10PMから明け方
平工業高校体育館外の通路が暗闇の為、仮設トイレに安心して行くことが出来ず、まずアークライトにて投光。 消灯9:30PMまでと指示されていたが、被災者からの要望で、明け方まで点灯した。
体育館前で段差があった。 転倒事故が多いとの避難者からの意見があった。 それをいわき市に申し出て、二日後、ポールがたてられた。 高齢者は、段差による転倒事故が多い。 転倒による大腿骨折があると、寝たきりになってしまう。 すみやかにやってほしかった。

2011年3月24日木曜日 【東日本大震災後13日目】 <訪問2日目>
500AM頃
災害対策用現代版稲むらの火、発電機付きアークライトの消灯を行った。
5:35AM
あまりにも美しい朝焼けであった。
自然の力には、良しきも悪しきも、私たちは従わざるを得ないと感じた。
1:30PM
被災地視察に、午後から車を走らせた。 美空ひばりの歌に出てくる塩谷崎灯台が見えるところを探した。写真の真ん中あたりに、県道から撮影。
15号線を四倉方面に向かって北上。 瓦礫を道路わきによせて道路が整備されていた。

1:50PM
水田に、瓦礫、車などが塩水につかっていた。 稲を植える事が難しくなっていた。
この瓦礫は、様々な、資産、希土類、資源もあるはず。 ただの瓦礫では無いと感じた。
6:40PM  もう既に暗くなった。
アークライトによる投光準備開始。
6:45PM
アークライトの出力をすこしづつアップ。
9:24PM
アークライトの光の帯。
6:50PM
体育館前の通路にて、運動場方向から撮影。 アークライトで、小さな、小さな太陽のように照らすことができ、被災者のかたに喜ばれた (これでも最大出力の半分程度での投光。) うれしかった。  10年以上前から、もしもの時のために開発して良かったと思った。

2011年3月25日金曜日 【東日本大震災後14日目】 <訪問3日目>
諏訪川の防波堤(海と接する)は、大きく割れていた。 3:40PM
被災地風景。 瓦礫の山。
3:42PM
友人に連絡が取れず、その場所を訪問するも、崩壊していた。 写真があった、友人宅で間違い無い。 彼の写真もあった。 仏壇もあった。写真は、仏壇の前に置いた。
被災地風景。 瓦礫の山。 山側から見たセブンイレブン。 破損した車が店内に入っていた。 やはり、津波の引き潮で入り込んでいた。
03:02PM
警察のヘリコプターが被害状況を調査していた
  午後放射線をあびているかどうかのスクリーニングテストをおこなって、証明書をもらった。
これが後で、必要になるとおもわなかった。
@支給品の菓子パンやから揚げ弁当が毎日続く食事に関して: 気づき

高糖分、高塩分が、高齢者にとって、また制限をもっている方にどれだけ、健康面で影響あるか!
しかしながら、食事の供給が難しい点でやむをえないのか!?

A要介護の片まひの方、及び高齢者にとって: 気づき
片まひの方がトイレに行こうとすると、歩くのにも大変だった。
体育館の床で滑ってしまっていた。 ベッドが無いと、難しい。

被災者みずから、どこかで簡易ベッドを入手して改善された。

8:00PM
暖かいあら汁150人分以上を提供された元市議会議員の方。 我々もいただいた。 毎日、から揚げ弁当と菓子パンばかりであったが贅沢は云えない。(1日に2回支給されていた。)。あったかいあら汁は格別においしかった。 残ったあら汁も次の日の朝、被災者の朝食でも頂いた。 あったかい汁物、本当にありがたかった

2011年3月26日土曜日 【東日本大震災後15日目】 <訪問4日目>
03:05PM
いわき市水道の復旧率が5割程度で、ここは水が出ない。架設トイレの水をプールの水を水中ポンプでくみ出ししていた。 水中ポンプも、容器も被災者が用意したもので、震災直後は手汲みを行っていた。

04:20PM
被災を受け、体育館に滞在されておられる女性陣による初めての自らによる炊き出し。 喜んでおられた。 前日に、プロパン1本とガスコンロが地元議員の計らいで用意された、が1本までとの事。 いつまでもつか。。。

06:25PM
右男性(Stuido Do 代表井出さん)の家族出身が、被災地付近であった為、東京都世田谷区と奥様の実家が150名分のご飯と具材を用意された。 左の炊き出しが出来たのは、彼らの支援であった。

05:10PM
ご飯は、白米で無く、栄養価の高い穀物でのご飯である旨、東京の栄養師の方が説明。
前にある、車イスが印象的であった。(タイヤ圧が殆ど無かったが、市の方へ報告依頼し、調整できた。99歳の方がトイレ移動の為メインに使用していた。)
06:40PM
どこかのお寺さんが、タオル、衣類、生理用品などを提供。 他にも、茨城県立日立工業高校阿部二郎先生は、自費で出来る範囲内で、灯油などを提供。
3月26日 03:40AM
この夜は、雨が降ったが他メーカーに比べ耐水性に優れた発電機付きアークライトで問題無く投光できていた。 寒かった。

2011年3月26日日曜日 【東日本大震災後16日目】 <訪問5日目>いわき市の皆様と一時のお別れ
08:30AM
被災されたのにも、かかわらず前向きな家族。奥様は先頭をきって被災者の自立を望んでいた。
08:35AM
日本一の牛乳を造っている被災者家族。 川西晃氏はおばあちゃん達の肩を揉んだ。 喜ばれて再開できたら牛乳を送ってあげるとも云われた。 嬉しかった。  復活を信じている。 信じてやまない!
08:37 AM
こちらのご夫婦は新婚?。 前向きであった。
当初から、フレンドリーで体育館のメイン引き戸の修正。(音が当初うるさく、彼はそのメンテナンスを行っていた。 オイルスプレーなどをふきかけて、溝の掃除を率先して行っていた。(夜中に引き戸の音がすると熟睡が出来なかった。 この問題を解消した。)
08:40AM
お別れの朝、被災者の人が送ってくれた。
涙した。 復興してほしい。

福島県立平工業高校正門前にて
01:30PM
岐路の途中、支援報告の為にいわき市震災対策本部を訪問。 そこて、新聞社よりインタビューを受けた。 その後新聞3社にて我々の東日本大震災への支援が掲載された。
@福島民友 A紀伊民報 B生活ニュース
左から、 かまぼこ製造業「米儀」代表木下正幸氏、わたくし「アークコーポレーション」橘 登、東京在住 Office K 川西 晃氏(デザイナー・ビジネスコンサルタント&介護士)
問題点把握(避難者へのモニタリング及び我々チームの気付きにて)と対応及び残された問題点
問題点_1)
排泄
問題 仮設トイレ内照明が無い(夜間は暗闇にて排泄している)
  >対応 工業高校の許可を得て、配線し電気を通して、女性用仮設トイレに明かりを設置した。

問題点_2)
事故
問題 外部通路の一部で段差があり、転倒事故がある点
  >対応 工事用目印を市へ依頼、その後翌日設置

問題点_3
夜間照明
問題 外部通路照明は、夜間トイレへ行く人が多く、午後9:30消灯では不十分である点
  >対応 アークライト照明を朝までとした

問題点_4)
お湯の確保
問題 お湯確保が難しい、湯確保の為の電気ポット3台及び電子レンジ使用による電気容量オーバーで数回にわたりブレーカーがとぶ。  その他、電子レンジ及び電気ポット1台を外した。
>>>20Aで、150人分の暖かいお茶すら飲めない!
  >対応 電機設備は変えられなかった。 つまりそのまま。

問題点_5)
食事
問題 食事は、暖かいものでは無く、日に2回の配給(1回は、ご飯のある弁当。  特にご飯は、ボサボサ、他1回は、菓子パンで、必ずしも栄養を取れるものでは無く、叉飽きてしまう点、例:鳥から揚げ弁当が4日続いた。
<糖尿の問題があるかたは、菓子パンばかかりは問題である。!>
  >対応 ガス・器具の依頼 >市議会議員の寄付にて入荷

問題点_6)
放射能汚染
問題 福島原発、放射性物質飛遊、流水の風評被害による避難者の不満が多い点

問題点_7)
メディア
問題 他被災地域に比べ、マスメディアが取り上げていない点

問題点_8)
疲労
問題 高齢者が疲労を訴えている点
  >原因 運動・活動不足 
  >対応 デイサービスに勤務してしる川西 晃氏が皆様のまえで、体操支援を行う。 その後、被災者みずから体操を行った。 

問題点_9)
行政との連携
問題 行政と避難民意のずれがある点(現実問題対策がうまくいっていない)
  >原因 多忙?人員不足?連絡がうまくいかないのか? 彼らも被災者であること。

問題点_9)
環境
問題 県立工業高校内の他施設が使用出来ない点
  >原因 避難民の一部の方が、高校内畳の部屋で飲酒・喫煙により、 畳を焦がした為(教頭先生いわく)

問題点_10)
睡眠障害
夜間雑音 体育館ドアが重く、開閉時の音が大きく、不快音がある点 
  対応> オイルスプレーにて潤滑化。 メンテを行う事により解消。静かに引き戸の開け閉めがおナなえるようになった。

問題点_11)
要介護者
車椅子 車椅子(99歳の高齢者が利用)のタイヤ圧が殆ど無かった。 音がうるさかった。
  >対応 空気入れを市へ要求、その後翌日入荷し、空気圧を保った。

問題点_12) 
入浴
問題 入浴が出来づらいと云うよりか、まったく出来ていない
  >対応 ボランティアにより、バス送迎により入浴(単発的)。 お湯が無い為、清拭しづらい。

問題点_13) 
総括リーダー不在
問題 避難者と行政のグループ統括リーダー不在である点
  対応
暫定
何とか、女性新が暗黙で構成されていた。 ただし、外部との接触の際に確認を要した。
いわき市の職員では不十分であった。(毎日、同じ人が居なかった、)

問題点_14)
治安
問題 崩壊地区での、金品盗人がいる! 残念!
  >対応 対応策としては、地域の夜間の自衛のみ。

問題点_15) 
車燃料確保
問題 ガソリン供給不足で、GSは、多くの車が数百メートル並んでいる。 また、緊急車両(消防・被害対策車両)以外は入れないGSもある。)

問題点_16) 問題 福島県立平高業高校始業(4月上旬)以降の避難場所不確定(不明確)

問題点_17)
家族の安否
問題

行方不明者の安否情報が入ってこない。
家族にとっては、これが最大である。 しかしながら、生きている方への、傾聴が必要。 
簡単にいうと聞いてあげる。 BUT 誰が?


問題点_18)
衛生面
問題 手洗い用流水が無い。 (体育館内の入口付近でのアルコールスプレーで一応除菌されているが。。) 
蛇口付き簡易タンクが必要であると思われる。

問題点_19) 
ごみ問題
問題 ごみ問題もある。分別がされていない。 (徹底分別が必要)。
  対応案 毎日、体育館でいる被災者が行う事が好ましいと感じた 。

感じたこと:
ボランティアは、自立支援をサポートする事が大事であって、決してリーダーにならないこと。 
リーダーは、外部の、どの著名人、有名人であってはならない! 
地域で暮らしている方が、そこで暮らしている人を選べばよい! ・・・と感じた。
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